“東京言友会女性の集い”が定期的に行われるきっかけとなったのは、子の吃音に悩む女性吃音当事者の死でした。
「同じ女性が集まる場所だから参加できる」と女性当事者の居場所になり、その活動は、現在、全言連女性オンライン例会など全国規模に広がっています。
女性の集いを始めたきっかけやご自身についてお話を伺いました。
小西 和子さん
2022.6.25.
<目次>
幼少期
物心ついたころから吃音でした。親族には吃音者が何人もいたので、どもりで恥ずかしいとか、隠そうという気持ちはありませんでした。
小学校に上がると、朗読で手を上げて読んでいたけど、言葉に詰まったり、友達の家にいったときにまねをされたり。
放送部に立候補したのですが、「どもりなのになぜしてるの」と言われ、話し方を意識するようになったら、話をするのが怖くなり、詰まる言葉が増えていって、言葉数が少なくなっていきました。
中学では、朗読ができなくて、先生に「指さないでほしい、他の先生にも伝えてほしい」とお願いをしました。高校もそんな感じ。
仲の良い友達からは、何も指摘されませんでしたし、友達が私がどもるからって、嫌なことをするとか、避けるとかはありませんでした。
しかし、いつもなにか重いものを抱えていて、暗い灰色のような自分が生活をしているなと感じていたのです。
「どもりはかならずなおる」訓練に費やした努力と失望
小学生の頃、「どもりはかならずなおる」という吃音矯正所の広告を、雑誌や、電信柱で見ました。
その言葉は、とても強烈でした。
「どもりは治るんだ!練習すれば治るんだ!」と胸が熱くなりました。
振り返って考えると、その言葉にずっと振り回されていたんです。
吃音を治すため、本を取り寄せて練習したり、中学の時は夏休み1〜2週間、矯正所に泊まり込みで訓練を受けました。矯正所では、腹式呼吸や、発声練習だけでなく、見知らぬ人に話かけ、会話をする訓練もありました。
道ゆく人に声をかけて「○○○にいくのですが、どういったらいいですか」と目的地までの道順を尋ねたり、喫茶店にある電話で、電話帳を無作為にめくり電話をかけて、「▲▲さんのお宅ですか」と話をするというものでした。
矯正所で訓練を受けると、ある程度みんなの前で話ができるようになるんです。
学校で「今度は大丈夫かな」と本読みをするけれど、1回どもって。
次は、もうちょっとひどくなって。
だんだん再発をしてくるという同じ過程を辿ります。
私の努力が足りなくて治らなかったんだって。
自己嫌悪になりました。
砂浜で遊んでいるときの光景が浮かんできます。
一生懸命に、砂で家や、道路をつくるのですが、大きな波がざぶっときたら、根こそぎさらわれていく・・・私のどもりってこういうものなのかなって、そういうものを感じていました。
吃音というのは、訓練をして、詰まらずに話すことに1回、2回成功しても、どんどん崩れていく。
何が違うのかなって。努力しても報われないって悲しいって。
言友会の誕生と加入、感じ始めた違和感
矯正所に通う人の中に、私と同じような話をしている人がいました。
その方は、大阪からお金をかけて東京の矯正所に通っていて、いつも同じ練習をして、また再発する。
自分達の力でなんとかしようって。
そして、1966年に吃音当事者のセルフヘルプグループ『東京言友会』が発足しました。
例会では、矯正所の方法や、詩吟や講談、弁論を取り入れた訓練をしました。
ある時、全国で北海道から順番に吃音相談会を開催している人がいました。
その人の話では、「どもっていても、明るく前向きに自分のやりたいことをして、仕事をがんばっている人に多く出会った。
私たちは、どもりを治そうとして、自分のやりたいことを傍において、吃らない訓練をずっとしてきたけど、それでいいのだろうか。」
私自身、吃音を治すために時間、お金や労力を費やしてきましたが、それが十分に報われることはありませんでした。
この言葉に象徴されるように、吃音の訓練自体を疑問視、否定する考えを持つ人もだんだん増えてきたのです。
どもりを克服する訓練に重きをおく、東京言友会。
訓練を否定する、大阪言友会。
当時は、吃音当事者活動の黎明期であり、みなの思いはとても熱く、活動は大きなうねりとなり、1976年の吃音者宣言*に辿り着きます。
東京言友会はその後、“吃音克服を目指す人、吃音克服を目指さない人、全ての当事者のための会”という方針に変わっていって、今の東京言友会になっていきました。
私自身はというと、言友会に参加することで、それまで一人で悩んでいた孤独感は楽になったけれども、職場で大事な場面になると、どもってしまう。
根本的な問題から抜け出せないっていう事態にぶち当たっていました。
当時、年頃で独身の私には、どもりたくない、どもりながら話すのはすごく抵抗があった。
吃音を受け入れる考え方は素晴らしいけども、私にはできないなって。
*言友会創立10周年記念大会にて採択された宣言。
吃音を治すことを目指さず吃音をもったまま生きる吃音者であることを社会に宣言した試み。詳細は『吃音者宣言 言友会運動10年』(伊藤伸二編、たいまつ新書)
子どものために強く変わりたい
結婚するとき、吃音があることを、夫にも夫のご両親にも伝え、受け入れてくれたと思います。結婚して2人の子どもを授かりました。
幼稚園に入った最初の保護者会で自己紹介がありました。
お母さん方はお話しが上手で、お子さんの話になると皆さん盛り上がって、その雰囲気にのまれて、圧倒されてしまいました。
周りには親しい友達もいないし、先生にも初対面だし、自分の名前をいうことだけで精一杯で。
「こういう保護者会が、十何年続くのかぁ。ずっと悩まないといけないのかなぁ・・・」と苦しくて、あるとき、保護者会を欠席したのですね。
その次の保護者会に行ったとき、とても辛くなりました。
保護者会を欠席することは子どもに悪いな、母だと逃げていられない、強くならないと、自分を変えていかないと。
どうすれば自分を変えられるかと真剣に考えられました。
「お母さん方と親しくなり、先生とも話ができる関係を作っていけば、楽に参加できるんじゃないか」って考えました。
皆さんの中に入っていこう、積極的に話をするようにしてみよう、小さなことでも、先生に聞いていくことにしよう。
皆さん、役員をやることを嫌がっていましたが、私はできそうだと思って、毎年、役員に手を上げていきました。
子どもが2人いたので、一度にお役を2つすることもあったけど、一生懸命させていただきました。
初めは皆さんの話に耳を傾けているだけでしたが、子ども達の事を考えていると、言葉が浮かんでくる。
短い言葉で、内容が伝わるよう言葉を選びながら発言を試みました。
回を重ねてくると、場の雰囲気にも慣れ、思わず手を挙げて発言していました。
そのとき、“吃音”は頭の中から無くなっていて、話す内容に集中していたのです。
やがて、皆さんからも認められるようになりました。
息子が小学校6年生の時には、サッカー部の代表という大役をさせていただきました。
お母さん方への説明会、コーチとの打合せ、副校長に校庭や雨の日の体育館の使用の交渉、連絡網を流すなど、全て初めての経験。
周りの方に助けていただき、教えていただきながら、責任感だけて必死に対応しました。
不安感満載で、吃る事も多々あったと思いますが、責任感を果たせたという「私にも出来た」感が残りました。
小さい頃から、社会に私の存在感はなくって、いてもいなくてもいいように隠れるようにしていました。
学校にいくと知り合いが増えて、気持ちが楽に。
少しずつ、社会の中に居場所ができていったように思います。
女性の集いの誕生
言友会が発足し5−6年経った頃、ある例会で、たまたま女性の参加者が多いときがありました。
「女性だけで話し合いでもしてみたら」と提案され、集まってみなさんとお話しをしたところ、吃音者では女性が男性より少ないですから、女性同士で話し合いをすると、気軽に話し合えるわね、いい雰囲気で話し合えるわね」という前向きな感想が多数出たのです。
それ以降、女性に限定した“女性の集い”を不定期で開催していました。
継続的に女性の集いをしたいと思い始めたきっかけがあります。
言友会の例会に、年齢が近く、住まいも近い女性の方が、たまに参加されていました。
後日間接的に聞いたのですが、その方がお子さんの吃音のことでとても悩んでいる、入退院を繰り返しているんだって聞いたことがありました。
それからしばらくして、家の前の鉄道に飛び込んだって聞いて・・・。
私たちに何かできなかったのかって心に強く残りました。
もし、気軽に子どものことで、吃音の相談ができていたら・・・彼女がお話ししてくれたかどうかは分からないけれども、もし女性の集いに参加してくれていたら違ったんじゃないか・・・、という気持ちが出てきました。
そこから、女性の集いを定期的にするのは大切なことじゃないかなって。
私自身、子どもの頃から自分一人で吃音の問題を抱えてきて、辛い思いをしてきました。
言友会に出会い、支え合う仲間ができたけれども、もうひとつ壁を越えることができない自分がいました。
それでも、例え自分の問題を話せなくても、話す場所がある、仲間がいる、って知ることが大切なことじゃないかなって。
それから集いを定期的にすることにしました。
言友会の総会の時に、そういう話をしたら、言友会直轄の部門とする提案がされました。そうすれば、例会会場には言友会会館が使えますし、お金が必要な時は、言友会の予算を使うことができます。
そうして、東京言友会女性の集いは正式に誕生しました。
参加した方が良い表情をして帰えられる、それが嬉しかった。
女性の集いでは、東京言友会の活動内容を紹介をしていた時期があるのですが、それをきっかけに広瀬カウンセリングなどの活動に参加した方が、変わっていく様子を目にしたり・・・。
「本当に皆さんとお会いできてよかった」、話し合いをしている中でそういう言葉を掛けてもらうことで、続けることができたと思います。
女性当時者の声なき声
人によると思いますが、男性がいると話しづらいことがあると思います。
女性の集いを開いていたあるとき、男性2人が「どんな話をされているのかそばで聞くだけなんで、いていいですか?」って、部屋に入ってきたんですよね。
すると、うわーって泣き出しちゃった方がいて。
「女性だけだから参加したのに」って。
男性がいる場で自分の話ができる女性の方はたくさんいらっしゃいます。
しかし一方で、女性の集いだから参加できる、参加したいという方も一定数いらっしゃいます。
その時は、私の心遣いが足りなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
女性の集いは、参加希望者からメールで連絡をいただきますが、実際に参加される方は少ないです。
「行きます」って連絡が入るけれども、連絡がない欠席も多い。
電話で事情を聞くと、何人かの中に入っていくのは、すごく抵抗がある、一対一ならお会いできるということで、個人的にお会いしたこともありました。
集いに来ることができる人はいいけれども、来られない人は一人で悩んでいる。
中には、「今度子どもが生まれるので、心配なので、参加したい」って、いう人もおられました。
次回参加していただけるように、メッセージを送るけれど、返事はいただけなかったり。
どうしたら女性の集いに来ていただけるのかなって思い続けてきました。
メールでのやり取りでしかできないことをもどかしく思います。
集いでお会いする当事者以外の方にも、見えないけれども、いろんな声がいっぱい声があるんだなって感じ続けてきました。
読者へのメッセージ
小さい頃から、どもりに劣等感を抱いていました。
自信がなくて、その反面、自分をよく見せたいところがあって。
将来素敵な自分になりたい、素敵な人になりたいなって・・・相手のことを思いやれる人間的にも素敵な人になりたいなって思ってきました。
ある時、言友会の総会で責任者の方が「吃音は人間的な成長があると改善されているんじゃないか」と言われたことを今でも覚えているのですが、与えられていることを誠実にしていくことが大事だと思うのです。
私自身は、吃る症状は変わらなかったけど、発言したい気持ちが心の中から湧いてきて、吃る不安感より、発言する事が大事になり、以前より吃音について気にならなくなり、悩まなくなってきました。
多少吃音が残ったとしても、自分の伝えたいことが伝わることが大切なこと。その経験が増えれば、自然と、吃音が気にならなくなり、そして悩まなくなると思います。
人によっては、一言吃っても気にする方はいます。
人それぞれなので、それはそれでよいと思います。
会社などに入ると、言葉の面でご自身のことをマイナスに感じることがあるかもしれません。
私の経験ですが、会社で他の人が気づいていていないことを私が率先してやっていたことを、退職するときにすごく喜ばれ、感謝の言葉をいただきました。
例えば、朝出勤すると段ボールが積まれたまま放置されていたら、まずその片付けを一生懸命やらせてもらったり、湯呑みの茶渋をきれいにしたり、そういう小さなことです。
自分を認めてもらうためではなく、周りの人に喜んでもらうためにするという意識でした。
できることを何か見つけてしていくことで、居場所ができる感覚を得ました。
与えられたことを一生懸命、真面目に誠実にこなしていくことが吃音が改善される道ではないでしょうか。
小西 和子(こにし かずこ)さん
東京言友会女性の集いを開催、その運営に長年携わる。現在、女性の集いは、東京以外からも参加者があり、地域を越えた女性吃音当事者の貴重な交流の場になっている。
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